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とっておき情報
塩の道ちょうじやは、「塩の道」と呼ばれた旧街道の大町宿の庄屋兼塩問屋の母屋と土蔵を保存し、塩の道の歴史や資料を展示しています。
この博物館は、以前は「塩の道博物館」という名前でしたが、一度閉鎖されて運営者が変わって再オープンしたときに、かつてこの庄屋を運営していた平林家の屋号の丁子屋になりました。
江戸~明治時代建築の3つの蔵が見られ、国の文化財に指定されてます。
馬上の射手が少年というユニークな夏祭り「若一王子神社」例祭で行われる流鏑馬の資料を展示する「流鏑馬会館」も併設されています。
塩の道は
塩の道祭り 新潟県糸魚川から松本まで、日本海の塩や海産物が運ばれた千国街道の別称です。「敵に塩を送る」という上杉謙信と武田信玄の言い伝えも有名です。
部分的に当時のままの道が整備されていて、街道歩きができます。特に、白馬の北にある小谷村には、モデルコースやガイドツアーもあります。
#しる
塩の道ちょうじや・流鏑馬会館
📍#大町市 #長野県
こちらは名家「平林家」の住宅を利用した博物館で、塩の道に関する資料や、若一王子神社で毎年行われる流鏑馬に関する資料が展示されています。
母屋は1890年(明治23年)、文庫蔵は1859年(安政6年)、漬物蔵・塩蔵は1872年(明治2年)の改築です。
大町は、糸魚川から松本まで塩や海産物が運ばれた「千國街道」(塩の道)において宿場町「大町宿」(仁科大町)として栄えました。
その大町宿において江戸時代に松本藩から塩問屋を任せられたのが平林家です。
当時の当主は、仁科家の家臣で大町の有力者と伝わる「大町年寄十人衆」に数えられていました。
庄屋であった平林家は、江戸時代は麻問屋や塩問屋、明治以後は醤油・味噌等の醸造業を営んでいました。
建物の母屋は1890年(明治23年)、蔵群は江戸時代後期から明治時代にかけて建てられ、2017年(平成29年)10月に大町初の国登録有形文化財に登録されています。
戦国の世、駿河(静岡県)の今川氏眞と相模(神奈川県)の北條氏康が謀り、甲斐(山梨県)の武田信玄を苦しめるために南塩を甲斐に入れるのを禁止。これにより信濃(長野県)も影響を受け、多くの人々が苦しみました。武田氏と戦っていた越後(新潟県)の上杉謙信は商人に命じて値を安くして塩を分け与えたといいます。これが有名な「敵に塩を送る」の語源として語り継がれています。そのときの塩のルートがこの大町を通るものであったとされています。
信濃(長野県)へ塩や海産物を運び込むルートはいくつかありますが、大町などを治めていた松本藩は、軍事上の理由や税金の徴収のために甲州街道や三州街道(伊那方面)・中山道から運ばれる「南塩」を厳しく禁止し、塩はもっぱら糸魚川(越後:新潟県)方面から運ばれる「北塩」に頼ることになりました。このため、生命の維持に欠かせない塩を運び込んだことから「塩の道」と呼ばれました。江戸後期には、糸魚川の塩商人による値の吊り上げで人々が苦しんだことから、大町の平林甚左衛門が策を講じ、加賀藩(石川県)から輸入できる様に金澤の前田家に嘆願して能登(石川県)産の塩の輸入に漕ぎつけて人々を救いました。
江戸時代の荷物の運搬は、牛や馬に背負わせたり人の力が用いられました。平らで広い道では馬、山の中の狭い道や坂道では牛というのが普通であったため、糸魚川から大町の間は牛が、大町から松本の間は馬が主力でした。これは、大町以北は山道が多いことと、荷物の運搬に従事した農民の多くが農耕用に牛を飼育していたことによるものです。
新潟県内では殆ど塩が生産されておらず、多くは瀬戸内海沿岸の竹原・三田尻・松永・赤穂などで生産されたものが「北前船」で運ばれ、糸魚川や泊港に荷揚げされたものでした。
水と共に生命に欠かせない塩の歴史について学び、実際に当時の塩の道を歩いてみるのも面白そうですね。
引用:塩の道ちょうじや・流鏑馬会館HP及び館内案内
資料「千国街道 塩の道 –ここに千国街道の歴史がある-」
資料「平林甚左衛門を知る」
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#水が生まれる信濃おおまち
#からだの水をいれかえよう
#信濃大町 #信濃おおまち
#水 #自然 #北アルプス
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塩の道ちょうじや・流鏑馬会館
📍#大町市 #長野県
こちらは名家「平林家」の住宅を利用した博物館で、塩の道に関する資料や、若一王子神社で毎年行われる流鏑馬に関する資料が展示されています。
母屋は1890年(明治23年)、文庫蔵は1859年(安政6年)、漬物蔵・塩蔵は1872年(明治2年)の改築です。
大町は、糸魚川から松本まで塩や海産物が運ばれた「千國街道」(塩の道)において宿場町「大町宿」(仁科大町)として栄えました。
その大町宿において江戸時代に松本藩から塩問屋を任せられたのが平林家です。
当時の当主は、仁科家の家臣で大町の有力者と伝わる「大町年寄十人衆」に数えられていました。
庄屋であった平林家は、江戸時代は麻問屋や塩問屋、明治以後は醤油・味噌等の醸造業を営んでいました。
建物の母屋は1890年(明治23年)、蔵群は江戸時代後期から明治時代にかけて建てられ、2017年(平成29年)10月に大町初の国登録有形文化財に登録されています。
戦国の世、駿河(静岡県)の今川氏眞と相模(神奈川県)の北條氏康が謀り、甲斐(山梨県)の武田信玄を苦しめるために南塩を甲斐に入れるのを禁止。これにより信濃(長野県)も影響を受け、多くの人々が苦しみました。武田氏と戦っていた越後(新潟県)の上杉謙信は商人に命じて値を安くして塩を分け与えたといいます。これが有名な「敵に塩を送る」の語源として語り継がれています。そのときの塩のルートがこの大町を通るものであったとされています。
信濃(長野県)へ塩や海産物を運び込むルートはいくつかありますが、大町などを治めていた松本藩は、軍事上の理由や税金の徴収のために甲州街道や三州街道(伊那方面)・中山道から運ばれる「南塩」を厳しく禁止し、塩はもっぱら糸魚川(越後:新潟県)方面から運ばれる「北塩」に頼ることになりました。このため、生命の維持に欠かせない塩を運び込んだことから「塩の道」と呼ばれました。江戸後期には、糸魚川の塩商人による値の吊り上げで人々が苦しんだことから、大町の平林甚左衛門が策を講じ、加賀藩(石川県)から輸入できる様に金澤の前田家に嘆願して能登(石川県)産の塩の輸入に漕ぎつけて人々を救いました。
江戸時代の荷物の運搬は、牛や馬に背負わせたり人の力が用いられました。平らで広い道では馬、山の中の狭い道や坂道では牛というのが普通であったため、糸魚川から大町の間は牛が、大町から松本の間は馬が主力でした。これは、大町以北は山道が多いことと、荷物の運搬に従事した農民の多くが農耕用に牛を飼育していたことによるものです。
新潟県内では殆ど塩が生産されておらず、多くは瀬戸内海沿岸の竹原・三田尻・松永・赤穂などで生産されたものが「北前船」で運ばれ、糸魚川や泊港に荷揚げされたものでした。
水と共に生命に欠かせない塩の歴史について学び、実際に当時の塩の道を歩いてみるのも面白そうですね。
引用:塩の道ちょうじや・流鏑馬会館HP及び館内案内
資料「千国街道 塩の道 –ここに千国街道の歴史がある-」
資料「平林甚左衛門を知る」
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